エッセイコーナー
232. 3・11平泉浄土のあかり毛越寺  2017年3月11日

あれから6年の歳月が流れた。
「何が変わったか」と6年間を振り返ってみたが、特段変わった事は思い浮かばない。強いて云うなら涙腺の緩み具合が多少気になるようになった。
勿論老化現象の一つでもある涙腺の緩みだが、特に、6年前の大津波によるあまりの酷さ、多くの犠牲者を目の当たりにすれば尚更と云うもの。

ちょうど6年目の本日、平泉町の毛越寺本堂前で、「3・11平泉浄土のあかり毛越寺」が、NPO法人みんなでつくる平泉の主催で午後2時15分からキャンドルに明かりが灯された。
そのキャンドルは、中尊寺や毛越寺から譲り受けた蝋燭を溶かし、地元の女性らの手によって新たに色付けされ、成形したものだとのこと。とても綺麗に仕上がっている。

その後会場を本堂に移し、震災発生時刻の2時46分に合わせ、地元のご婦人方の御詠歌から始まり、毛越寺の僧侶らによる7回忌の法要が営まれた。
約1時間の読経の後、千葉慶信執事長のご挨拶があり、そのなかで3月6日に来県された第257世天台座主 森川宏映大僧正のお言葉を紹介された。なかでも、法華経の第16章如来寿量品の「常懐悲感(じょうえひかん) 心遂醒悟(しんずいしょうご)」を引かれたが、その意味を説明された時には流石に私の涙腺も崩壊してしまった。

意味は、「常に悲しみを懐いて、心遂に覚醒す」則ち、常に悲しみを懐いていると、その悲しみが心を浄化し、神仏やご先祖が安寧の世界へと導いてくれると云う意味とのこと。
悲しいことや辛いことがあれば、通常ならば考え方を改め、前向きな発想によって克服すべしと云うのが一般的だと思うが、それはなかなく難しいことだ。
悲しい時は遠慮することなく悲しめばよい。また一つ、悟った気がする。


フォト短歌「6年の歳月」
                  ↑ 一関市役所前にて ↑
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