エッセイコーナー
56.青の思惟  2013年5月10日

源義経が、義兄頼朝との対立から平泉に逃れ、背水の陣となり、やむなく妻子らと共に自刃を余儀なくされたのは31歳のときだった。故事によると31歳は青年期。つまり青春真っ只中にこの世を去った。
その義経が、無念さを残しながら永眠する平泉の高舘に、約五百年後の元禄2年、俳聖松尾芭蕉が訪れ、義経らの無念を想いながら詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」の句の刻まれた石碑が、晩春には豊かな濃緑に包まれ、送り盆の8月16日には法灯の淡い明かりに照らされ、また晩秋には茜色に彩られる毛越寺の境内にひっそりと佇んでいる。

その石碑を、宮沢賢治が盛岡中学時代の修学旅行で訪れた折り、「桃青の夏草の碑はみな月の青き反射のなかにねむりき」と短歌を詠んだ。
その意味は諸説色々、桃青(芭蕉以前の号)の碑は、濃緑の季節、木々の緑が大泉が池の水面に反射するなかにひっそりと佇む、といった叙景歌としての解釈が一般的だろう。
この青き反射の意味には、平泉を訪れるつい2日程前、群青色の太平洋を初めて目にし、賢治の脳裏にあまりにも鮮烈な印象が残っていたに違いない。或いはまた、この地を最期に、青春真っ只中にこの世を去った義経の無念さとが、青に接点を見出したのではないだろうか。

藤原清衡公が前九年の役や後三年の役で、英霊となった魂の浄土への誘引を促す為に、中尊寺一山の造営に着手し、阿弥陀如来の住む極楽浄土を想見する金色堂を建立した。
また基衡公は薬師如来が住む浄土を表そうとして毛越寺を建立した。その先人たちの崇高で高潔な浄土思想に触れ、熱心な門徒の家に生まれ、正信偈を諳んじる程の信仰心が篤い、賢治の純真で清廉な心と魂とが共鳴し、前述の短歌を詠み、碑の建立はないが、心の琴線に触れる秀歌を残したのではないだろうか。
拙歌「夏草や触れるなさけは数多なり桃青の碑は木陰に眠る」桃青の石碑を前に、若き賢治の献身的精神に触れたような気がする。

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