エッセイコーナー
33.東日本大震災10日間の記憶  2011年3月26日

◆3月11日(金)の悪夢
仕事がひと段落し、事務所に戻ろうと一関バイパスを北上していた。ちょうど一関市警察署を過ぎ、厳美街道との交差点を渡り、上り坂に差し掛かった時だった。
車が突然揺れだし、「タイヤがパンクしたのかな~」それにしても何か変だ。次の瞬間、両タイヤがバーストでもしたかのようなとてつもない衝撃を受けた。嘗て経験した事のないような「突然の大揺れ」を感じた。直ぐ前を走っている車も減速して急停車。前方向から走ってくる対向車も次々と止まり始めた。

直ぐ様ただならぬ事態であることを察した。30年ほど前の宮城沖地震の記憶も薄らいではいるが、それ以上の揺れと破壊力だった。舗装された頑丈な道路に亀裂が入り、樹木も倒れんばかりに揺れにゆれた。
なぎ倒されんばかりのとてつもない状態であった。
ふとその時、僅か2kmほど先に事務所がある。父親が一人で留守番をしていた事を咄嗟に思い出した。居てもたってもいられず、大揺れの中、停車している車の間をぬいながらも車を前に進めた。
その間5・6分ほどだったろうか。
何とか無事に事務所に辿り着く事が出来たが、未だに揺れはおさまってはいなかった。

直ぐさま玄関を開け、事務所の中に飛び込み、父親が無事である事を確認した。
勿論事務所の中はごちゃごちゃであった。本棚は崩れ落ち、プリンターは落下して破損していた。トレーニングルームを確認してみると、ラックに掛けてあったプレートの殆どが落ちていた。
更には壁側のシャフトラックに立てかけてあった50mm用のバーベルシャフトが全て倒れていた。
シャフトを持つ時に必要な滑り止め用のタンマグは床一面に散らばり、棚の上に置いてあったトロフィーなどは全て床に落ちて破損していた。凄い有様だった。
しかしながら、父親の無事を確認出来た事が何よりの救いであったが、それと同時に、自宅に居るお袋の安否が心配になった。

直ぐさま事務所を飛び出し、無事を祈りながら車を飛ばしたのだが、行けども行けども信号機が停止していたので、辺りを注意しながら、焦りを抑えながらも慎重に走る事に努めるしか術はなかった。
今朝までごく普通に何事も無く通っていた道路なのだが、ところどころ、おつとつや割れ目、ひび割れが目立っていた。
それでも何とか無事に自宅に辿り着き、お袋を呼びながら探しまわったところ、裏庭で竹箒を持ちながら坦々と掃き掃除をやっていた。
それどころではあるまいと思ったが、お袋も無事であった事に安堵して、家の周りの被害状況を見て回った。庭先にある外専用の古井戸の石垣が崩れ、土蔵の壁が剥がれ落ち、東側にある裏門が倒れかかっていた。家の中はというと棚の上から落ちた置物は散乱し、ガラスの破片もあちこちに散らばっており、裸足ではとても歩ける状態ではなかった。

家屋自体の損傷は、トイレに行く通路の天井がずれ落ちそうになっていたが、それ以外は殆ど無事のようであった。
築160年以上の古民家だが、昔の建物はいたって頑丈だ。
母親の安否が確認でき、直ぐさま茨城県にいる息子(筑波大学)の携帯を鳴らしたが一向に繋がる気配が無い。
何度も何度もリダイヤル通話を試みたがまったく進展が無かった。
埼玉に住む妹家族や東京にいる姪もやはり同じであった。そうこうしているうちに携帯のバッテリーが切れてしまったが、充電しようにも電気が来ていない。
悶悶としながらも、太陽は沈み辺りは次第に暗くなってきた。

電気が入らないので、明かりになるのは懐中電灯と蝋燭だけだが、余震が怖いので極力火は使いたくない。
ありあわせの夕食を済ませ、買い置きしてあった電池をかき集め、それを懐中電灯と、兎も角情報が欲しかったのでラジオのスイッチを入れた。
暖房はというとファンヒーターのみで暖をとっていた為に、電気が来ないと何の役にもたたない。
火は勿論危険である為、暖をとる手段がなかなか思い当たらなかった。

結局暖まる手段といったら布団にもごり込む以外に方法が浮かばなかったのである。
強い余震に備え、直ぐにでも外に非難出来るようにと、足の悪い父親と年老いた母親の布団を、天井の高い上階部分のない広い座敷に敷く事に決めた。
そしてもしもの時に直ぐさま飛んで行けるようにと、すぐ隣の部屋に私の布団を敷き、ズボンと靴下を履きジャンバーを羽織ったままの状態で床に着くことにした。

3月の日没は早く、6時ぐらいになるともう暗くなる。万が一を想定して、障子を開け放しにして、縁側越しのガラス戸だけが寒い外気を遮断する障害物となっていた。
うつらうつらとしながらの仮眠状態が続いた。連絡の取れない息子や妹家族が気がかりでしょうがなかった。
かなり強い余震もあり、何度も何度も起き上がっては隣の部屋の両親の様子を伺う。
結局その晩4・5回はそうしただろうか。勿論熟睡などはもってのほかであった。

一晩中ラジオから聞こえてくる地震情報を聞いていたが、この近辺の被害だけではなく、関東以北全体にわたり被害が広がっている事を知った。
大規模な津波発生や福島原発の事故の報道が流れてはいたが、詳細については未だ不明であった。
ただ、とんでもない大惨事であるという事だけは確かであった。

まんじりともしない漆黒の暗闇が次第に薄らぎ、少しずつ少しずつではあるが白み始めてきた。
暗い中では行動が制限されるので、徐に起き上がり、不安に駆られているであろう愛犬の様子を伺いに行ってみたところ「クンクンクンクン」と悲しげな泣き声とともに、傍らにぴったりと寄り添ってきては決して離れようともしなかった。
散歩がてらに周りの様子を伺おうとグルっと近所を見て回ったが、聞こえてくるのは決して好ましいとは言えない余韻が残るサイレンの音の他に、近所にある牛舎から「モウモウモウ」と悲しげにすすり泣く牛たちの泣き声ばかりであった。

◆3月12日(土)(悪夢の震災から2日目)
二日目の朝をむかえた
未だ電気が入らない。水も出ない。幸いなことに事務所のある平泉町は水道が出ている。
飲料水を確保するため、片道約11KMの道のりを車で往復する。ガスはプロパンなので煮炊きは可能である。かろうじて食事だけは買い置きのパンやカップ麺、主食である米は当然生産者でもあるので十二分に備蓄してある。
問題なのは電気が来ないため、暖がとれないのと夜間の照明が使えない事、電話が通じない事と携帯への充電が出来ない為連絡が取れない事であった。

それ以外に困った事といえば、ガソリンの確保である。水を汲みに行く為にもガソリンが必要となる。
車の燃料メーターを気にしながらもスタンドを回ってみたが何処も閉まっていた。電話が通じない為、どのスタンドで何時に開くのかの情報が全く入ってこない。
ラジオをかければ被害状況と、挙句の果てに、今後の安全対策に向けての方針やら、安全対策の反省やら、各党の代表者がこぞって政府の批判ばかりだ。「批判するより先ず政府に協力すべき時だろうが」「そんな事は後でやれ」もっと今必要としている、大事で身近な情報を何故早く放送しないのかと、ただ呆れるばかりであった。

現代社会はインフラが進み、確かに便利さを増すばかりだが、こんな予期しない有事に至っては、昔のように水を井戸から手押しポンプで汲み上げ、暖は囲炉裏の火を使い、お風呂は五右衛門風呂でいいから薪をくべ、お湯を沸かした方が遥かに融通が利くのだという事を改めて知った思いがしたのだった。

◆3月13日(日)(悪夢の震災から3日目)
3日目になっても相変わらず電気が入らず、水も出ない。勿論固定電話や携帯電話も使えず連絡の取りようが無い。
水補給の為に、平泉の事務所まで車を走らせるがガソリンが心配でなかなか思うように走れない。その為、上り坂は止む無しと思っていても、下り坂は極力ガソリンの消費を抑える為にニュートラで走るように心掛けた。
しかしそれも本来であれば危険な行為である。通常エンジンをかけて下りを走ればエンジンブレーキが効くが、その効果が期待できないので、減速や停止する為にはディスクパットブレーキのみとなり、パットに掛かる負担は大きくなる。
即ちパットの減りが早くなり何時ブレーキが効かなくなるかも知れないのである。

その為、止む無く見通しの良い場所のみニュートラ走行とし、ガソリンの節約を図り、カーブや塀などの見通しの悪いところはエンジンブレーキを併用する事にしていた。
その晩も相変わらず日暮れとともに布団にもぐり暖をとった。そして日の出とともに起き出す。本来であればこれが正しい生き方であり、生活のリズムなのかも知れないと思いながらも、熟睡の出来ない一夜を明かす事となった。

◆3月14日(月)(悪夢の震災から4日目)
震災から4日目の朝をむかえた。
今日も電気がきていないようだ。いったい何時になったら復旧するのだろうか。
今朝のラジオ放送では、通電の際の注意点が指摘されていた。それによると、ブレーカーを下げた状態で通電されると、コンセント部分から発火する恐れがあるとの事だった。
それを聞き、慌てて家中のコンセントを点検すると同時にブレーカーを下ろす事にした。
築160年以上もの古民家である。コンセントの点検もそう一筋縄にはいかなかった。今まで知り得ていなかったコンセントまで発見し、逆に良い機会でもあった。

くもの巣や埃を取り去り、殆どのコンセントを抜ききって通電に備える事となった。
その後、いつものように水の補給を兼ね、ガソリンの心配をしながらも平泉町の事務所に行ってみる事にした。
というのも、ラジオの情報では、一部を除き一関市内の電気が復旧したとの情報が入ったからだ。
兎も角、一関市内が復旧したという事は、隣接する平泉町も復旧している可能性があるということだった。その僅かな期待に望みを託し車を走らせていると、遥か前方に見える信号機の赤色が、しっかりと確認できたではないか。

少しづつゆっくりと近づいてみると、実に眩しく感じられ、信号機の点滅に感動すら覚えたものだった。
俄然期待は高まった。
電気が通じていれば携帯電話に充電ができ、息子に連絡が取れる。
次第にアクセルを踏む右足に力が加わるのを鮮明に憶えている。事務所前には、缶ジュースなどの自動販売機が設置してある。到着すると直ぐさま、100円硬貨1枚と10円硬貨1枚をチャリンチャリンと立て続けに入れてみた。「点いた」。

3月11日の朝迄、毎朝の出勤の際、必ずといっていいほど事務所に到着する度にこの動作を欠かした事がなかった。
何時もの缶コーヒーのランプに、電気がついた事が実に感動的であった。本当に本当に嬉しかった。
早速温かい缶コーヒーを左と右の頬に持ってきてはその温もりを存分に味わい、そして直ぐにそれを片手に持ちながら事務所へと駆け込んだ。先ず最初に電話の受話器を取り耳にあてたが、ツー~という音がしない。何の反応もなかった。
電気は開通していたものの電話は未だ復旧していなかったようだ。止む無く早急に携帯電話の充電に取り掛かった。

頃合を見計らい、徐に息子の携帯のダイヤルを回してみた。しかしながらなかなか通じない。20分程リダイヤル操作を何度も何度も繰り返した。
するとその時、丁度タイミングが良かったのか、漸く「プルルルル~プルルルル~」とベルの鳴る音に切り替わった。
間もなくすると久しぶりに聞く息子の声が受話器の向こう側から聞こえてきたのだった。
無事である事を確認出来ただけでも、本当に嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。息子の元気そうな声を聞いただけでも、感極まり、もう堪え切れるものではなかった。

息子の無事を確認した後、直ぐさま妹家族とも連絡が取れ、無事である事を確認できたのだった。
その後一息ついた後、テレビのスイッチを入れ約4日振りとなるテレビ画面を食い入るように見つめた。
ところが、画面に写る光景はあまりにも悲惨で、とても信じ難い光景が映し出されていた。まるでCGで編集され、人工的に作り出された映画と見紛うばかりだった。
大船渡市、高田市、気仙沼市、南三陸町、とても信じられない光景がそこには広がっていたのだった。
津波による被災者、犠牲者の数が未だに掴めていないという。こんな光景を見るのは勿論初めてだが、あまりにも酷過ぎる光景であった。

被害のない地域から、或いは海外に居る日本人から温かい励ましのメッセージが寄せられていた。「頑張って下さい必ず復興しますよ!」「今海外にいるけど、直ぐに日本に戻って捜索活動のお手伝いをしたいけど、それが出来ない自分への無念さを痛感しています。皆さん頑張って下さい!」などなど。
ちょうど地震の時、仕事で被災地気仙沼市にいて、運良く生還できた人からの便りでは、「被災した人達は、皆自分を犠牲にしてまでもお互いを気遣い、庇いあって食料などを分けて下さった。本当に東北の人達は素晴らしい人達です」と涙ながらに話していた。

女川原発の停止や、福島原発の爆発事故にともない、稼動不能となって電力の供給量不足に陥り、100万世帯以上が停電となっている。勿論我が家でも電気が使えない状態が4日目となるが、「電気の有り難さ」をまざまざと思い知った次第である。
いくら寒かろうとも暖を取る事すらできない。火を焚いて暖を取るという手もあるが、火を使うと余震の恐怖が過ぎる。出火ともなればそれこそ一大事である。

また、我が家では、水の確保を地下水に頼っている。その為には井戸からポンプで汲み上げなければならない。ポンプを動かすには電気が必要となる。
被災地では同じような思いで苦しんでいる人達が数百万人もいる。
その為に少しでも早く被災地への電力供給を目指し、政府は被災していない地域で計画的に停電をさせ、電力の安定供給を図ろうと全国民にメッセージを発信していた。

ところが、残念にも一部の関東方面の人達から「東京電力の電源は都民の為のものであって、被災したとはいえ東北の人達の為に、一時的とはいえども計画停電する事に反対だ」との冷ややかなコメントが寄せられていた。
いやはや、他人事としか考えてないようである。自分さえ良ければいいという事なのだろう。
爆発事故で稼動を停止した福島原発は、東京電力所有の発電所である。即ち、計画停電でもしない限り、あなた達が大変な目に遭うのだぞ! 

更に追い討ちをかけるかのように、被災者の憤りをかった発言があった。
「天罰だ・・・」と、あまりにもデリカシーのない無神経な虚業家あがりの知事さんが言ったそうだが、まったく天罰を受ける覚えのない数万人もの犠牲者が、もし聞いていたらどう思うだろうか。とても許される言動ではない。
何と嘆かわしい事であろうか。

◆3月15日(火)(悪夢の震災から5日目)
5日目の朝をむかえた。昨晩も日没とともに布団にもぐり暖を取る事になった。
ラジオの予報では震度6前後の余震発生確率が40%との事だ。何時如何なる時でも、直さま外に出られるようにと今夜も着衣のままの就寝となる。これで4日連続となった。
水不足の為、洗濯もろくにできない。その為、下着以外は極力そのままの状態である。普段はあまり気にも留めていない事だが、布団をかぶる際に、すこ~しばかり気になるようになった。そろそろ取り替えないといけないようである。

日頃の日課は起床と同時にご先祖様と神棚に水を供える事だが、震災後のここ5日間は、その後に2階に駆け上がってブレーカーを入れる作業が加わった。今朝も反応がなかった。
今日の朝刊には「一関両磐地区停電解消エリア拡大」とあったが、市街地から離れた里山にある我が家では、未だ通電されていないのである。文句を言ったところで、もっともっと辛い目に遭っている人達が大勢いる筈。
「我慢だ」がまんする以外にない。

家の中や家の周り、裏山にある氏神様、ご先祖様が眠っている古墓や、お寺にある一つに纏めた先祖代々のお墓の点検と、ある程度の補修が済んだので、田畑の様子でも伺おうかと犬の散歩を兼ねてグルッと見回る事にした。
あれだけの大揺れである、何も無い筈がない。
やはりところどころに亀裂が入っていた。しかしながら、その事よりももっと深刻な状況になっていた箇所があったのである。水田の上流部にある排水路と用水路の分岐点で、排水側を堰き止め、用水として使う為に堰き止める水門が、あの大地震のショックで倒されていたのである。

その水門を補修しないことには、水田に水を供給できない。とても稲作が出来る状態ではなかった。
ところで、震災後5日経過したというのに、行政からの連絡は皆無である。知りたい情報がまったく入ってこないのだが、防災無線や、地域に密着したFM放送の無い一関市は、2年半前に起きた岩手宮城内陸地震の震源地であり被災地であるにも係わらず、なんともお粗末であると言わざるを得ない。

◆3月16日(水)(悪夢の震災から6日目)
遂に電気が開通した。
昨日の夕方、近くを通っている県道の街路灯にほのかな灯りを確認する事が出来た。
もしやと思い、2階に急いで駆け上がりブレーカーのスイッチを入れてみた。
「やった!やった!やった!」実に嬉しかった。
既に両親は布団の中に潜り込んでいたので、電気が通い始めた事だけを伝え、私もその晩は電気の節約も考慮して布団に潜り込む事にした。

相変わらず余震がおさまる気配はなかったが、それでも今朝はすがすがしい朝をむかえる事が出来た。これほど迄に電気のあり難さを噛みしめた事が嘗てあっただろうか。早速溜まりにたまった衣類の洗濯に取り掛かった。
ところが、ところがである。3回目の洗濯を終えた辺りで、水道の蛇口を捻っても水が出てこないのである。
「なんでだ?」と暫し呆然自若となったが、井戸水の確認をしてみたところかなり水位が下がっており、底が透き通って見えるではないか。

地震前迄は殆ど枯れた事のない、しかも、誰からも「ここの水は旨いな」と言われる程の、我が家自慢の地下水だったのだが、この大地震で水脈が下がったのだろうか、殆ど地下水が残っていなかったのである。
困った事になった。「一難去ってまた一難」とはこの事かと思いもしたが、考えてみればこれ迄の一週間、「水の無い不便さを既に経験しているではないか」と気持ちを持ち直す事に努めた。
こうなっては焦っても仕方が無い。大地を潤す雨が降り、少しずつ地面に浸透し、浄化され、そして命の水となって地下水となる迄、じっと我慢し、たじろぎもせず、ただただ待つのみであると観念したのだった。

◆3月17日(木)(悪夢の震災から7日目)
次第に被害が明るみになってきている。死者・行方不明者合わせて1万2千人以上。
戦後最大の自然災害となった今回の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)。福島県の太平洋沿岸にある福島第一原発では、使用済み保管プールの水不足により大量の放射性物質漏れの恐れから、自衛隊のヘリや特殊放水車や警視庁の放水車で大量放水を試みている。
しかしながら依然その効果は判明していない。

日本政府は地域住民に対して、20km以上離れるようにと避難勧告を出したばかりだが、アメリカでは日本に滞在するアメリカ人に対して、80km以上離れるようにと警告を発している。
今までは日本政府の避難勧告に従うようにと伝えていた各国政府の方針も、修正撤回するようにとの表明がなされていた。益々危機意識を煽るばかりであり、チェルノブイリの悲惨な状況をつい連想してしまうばかりだが、日本政府や東京電力、原発の専門家は安全性を強調している。しかしながら果たしてそうなのか否か。

兎も角、命を掛けた任務に勇猛果敢に消火作業に取り掛かっている、自衛隊員や消防隊員、警視庁の勇敢な方達に対して、心から感謝し、尊敬の念を持つとともにその成功を心から祈るばかりである。

◆3月18日(金)(悪夢の震災から8日目)
東北地方太平洋沖地震の発生は、ちょうど一週間前の「きょう」であった。
日本政府は「ここ2・3日中にはガソリンなどの燃料供給の安定を図りたい」と、東北地方にタンクローリー車の台数を増やし、また海路を確保するなど着々と復旧に努めている。
心細くなったガソリンの補給をと思い、情報を探ってみても芳しい報告など何一つないのが現状であった。

聞こえてくるのは、「10リットルのガソリンを確保する為に5時間待ったぞ」「いやいや俺は8時間待って漸く2000円分給油できたぞ」などの報告ばかりであった。
なかには、「7時間も待った挙句、結局は1リットルも入れられなかったよ」との報告まである有様だ。
この2・3日真冬日となる寒い日が続いており、燃料を確保する為に車の中で夜を明かす人達が続出しているのが現状だが、奥州市ではその暖を取る為に車の中でストーブを焚いたらしい。その結果一酸化炭素中毒になって亡くなった方がいたようだ。一刻も早い復旧を切望するばかりである。

◆3月19日(土)(悪夢の災害から9日目)
死者・行方不明者が1万8千人以上にものぼるのでは、との報道だが、なかには連絡が取れない為に安否の判断がつかないケースがある筈だ。是非そうであってもらいたいものだ。
私の知人にも津波の直撃を受けた気仙沼市と宮古市に、安否確認が取れていない人が数名いるが、兎に角無事であって欲しい。

◆3月20日(日)(悪夢の震災から10日目)
死者・行方不明者合わせて1万9千人以上との報道がされたが、日に日にその数を増している事が非常に気がかりである。未だにその全容は明らかにされていない。
私のブログでも、過去に何度も紹介している岩手の大将こと高橋静雄(パークシーエム・さん食亭・こけめ農園などのオーナー、岩手県北上市在住)社長より携帯に電話が入った。
気にはとめていながらも、こちらから先に安否等の確認の連絡をすべきであったが、社長の方からかけてこられ、恐縮しながらも色んな話をしているうちに、今回の津波で壊滅状態となった陸前高田市内に、高橋社長の友人が居たとの事だった。

地震後度々携帯に安否を確認しようと電話していたがなかなか連絡が取れず、5日目にして漸く連絡が取れたとの事だった。その際に、必要なものは何かと尋ねたところ、「ガソリンが欲しい」との要請に対し、高橋社長にとっても残り少ない貴重なガソリンを提供すべく、更には知人に声掛け合って集めた500kgもの貴重なお米を、所有しているトラックに積み込み、北上市から遠路高田市まで運んだのだそうだ。
トラックの燃料となる軽油は、ガソリンスタンドからはなかなか手に入らない為、所有している重機からわざわざ抜き取るなどして支援物資を届けているとのことだった。今後も続けなければいけないと話していた。

如何に善意からとはいえ、個人でここまで出来る人は先ずいないのではないだろうか。
いくらお金があっても、自分の事しか考えない人達が大勢いる。例え善意あるお金持ちの方達でも、お金を寄付する事はするだろう。
しかし片道約80km、往復で160kmの道程を、戻りの燃料が心配であるにも係わらず、被災者の事だけを考え、それを実行する岩手の大将は本当に凄い素晴らしい人物である。

更には社長が経営する農家レストラン「さん食亭」では、北上市から被災地である三陸方面に通ずる国道沿いにある事もあって、被災者の方は勿論、被災地に向けて物資を運搬する人達、或いは食料がなかなか手に入らない近隣の人達の為にも、食事(昼食)や食料を格安で提供しているとのことだった。本当に頭が下がる思いである。

◆3月21日(月)(悪夢の震災から11日目)
昨日の日記で、善の心と奉仕の心を持ち、被災者の方々の為に、我を犠牲にしてまでもひたすら尽くしている素晴らしい人物の話を紹介したが、ガソリンが入手困難を極めているなか、岩手県南のとあるガソリンスタンドでは、通常1リットル当たり150円前後のところを、倍以上の300円で販売するスタンドまで出てきたという噂が広がっている。
もしそれが本当だとしたら、皆困っている時に、「人の弱みに付け込んで、人の足元を見るとは何事だ!」仏教の教えには、因果の法則というのがあって、良い考え良い行いをする人には必ず良い事が起こるが、悪い行い悪い考えを持つ人には災いが降りかかるという教えがある。

そのガソリンスタンドの1年後の姿が何となく想像がつく。
死者・行方不明者合わせて2万1千人以上との報道である。日に日に災害の全容が明らかになるにつれ、被害者の数が増えてくるばかりだ。とてつもない大惨事であった事が伺える。
亡くなられた方々に対し、心よりご冥福をお祈り致します。また、行方不明の方々の、一刻も早い生還を心よりお祈り申し上げます。

≪return
ブックオフオンライン