エッセイコーナー
295.命の洗濯  2018年3月13日

あれから7年。
一昨日の日曜日、本来なら一関市役所前の噴水広場で行なわれる「一関・追悼夢あかり」か、平泉町毛越寺の「3.11平泉浄土のあかりin毛越寺」に参加して哀悼の誠を捧げたいと思っていたが、如何せん、地元自治会の定時総会と重なり、そのどちらにも参加できなかった。
その代わりと云ってはなんだが、総会の開始が午後2時。議事に入る前に、出席者全員で甚大な被害を被った沿岸部の方向を向きながら1分間の黙祷を捧げた。

7年と云うと長いようにも思うけれど、あっという間だった。
福島原発の避難者を中心に、7年経った今でも、7万3千人もの避難者が故郷を離れざるを得ない状況に置かれている。
ただただ、虚しさを覚えるばかりだ。
福島原発の完全な廃炉への道のりはかなり厳しく、遠い。
問題とされている汚染水の処理をめぐり、凍土壁の遮水効果などにより、汚染水の流出量は減少し、ある程度の効果を齎しているとのことだ。しかしながら、汚染水の増え続ける敷地内の貯蔵タンクは、いずれ満杯となり、他の設置場所を探さねばならなくなる。核のゴミ同様、最終的な処分地が決まらぬまま、ズルズルと時間だけを費やしている。

高さ1.30m、直径40cmの「核のゴミ」からは、初期段階に人が近づくと10数秒で死に至る、極めて強い放射線が出ると云われている。時間とともに弱まりはするものの、環境への影響が収まるまでに数万年もかかると云われている。
処分方法については、国の方針では金属製容器に入れ、地下300m以下の深層域に埋める方針のようだが、問題はその場所が決まっていないことにある。

川内原発2号機や高浜原発の3号及び4号機は現在稼働しており、核のゴミを出し続けている。
最終処分地が決まらぬ状態でだ。本当にそれでいいのだろうか。
最近ではあまり報道されなくなり、時間が経つにつれ何事もなかったかのような錯覚と忘却が入り混じり、脳裏から雲散する傾向にある原発問題だが、3月11日、年に一度のみではなく、定期的に問いかけ、事の重大さを噛みしめる必要があるのではないだろうか。

ともあれ、私事も含め、自治会の会計処理や総会資料作成に忙殺された2ヶ月間だったが、無事に総会が終わり、やっと一息つけそうである。
明後日より4泊5日間。息子の留学先に赴き、束の間だが、生きていることに心底から感謝しつつ、「命の洗濯」をしてきたいと思う。


フォト短歌「ひむかしの空」
 


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