エッセイコーナー
652.加藤楸邨「邯鄲やみちのおくなる一挽歌」  2022年1月5日

一関市街地を東西に分断するように流れる一級河川、磐井川が流れている。
その東側に沿って南北に走る一本の道路がある。地元では「歴史の小道」として親しまれている道だ。
その道を釣山側から北に進むと、右手に日本基督教団一関教会の古い建造物が目に留まる。そこから更に50メートル程進むと、旧沼田家の武家屋敷が見えてくる。更に200メートル程北進すると、左手に造り酒屋の建造物が目に飛び込んでくる。世嬉の一酒造である。

その敷地内には国の登録有形財産に指定された 旧仕込蔵・酒母室や旧原料米置場・精米所など、古色蒼然とした趣のある伝統的建造物が存在感を誇っている。
その一角に、酒の民族文化博物館と、日本一小さな文学館として知る人ぞ知るいちのせき文学の蔵がある。
その文学の蔵の館内には、島崎藤村や井上ひさし、色川武大(阿佐田哲也)や三好京三、及川和男(前・一関・文学の蔵会長)を初め、一関市ゆかりの作家や俳人たち12名の書籍や貴重な資料が展示されている。
その館内の、入って右奥に展示されているのが加藤楸邨(故)の書籍や揮毫の掛け軸である。
楸邨は俳句結社「寒雷」の主宰を務め、伝統派から前衛派まで多様な韻士を育てた俳人として知られるが、楸邨文学の基を築いたと思われるのが宮沢賢治同様短歌である。

楸邨は少年時代、一ノ関駅長赴任の父親に従い2年程一関に住んでいた。岩手県立一関中学校(現・一関第一高校)に入学した当時、楸邨少年は石川啄木に心酔する一方、柔道や剣道、相撲などに熱中する「文武両道」の中学生活を送ったと云われている。
父親の転任の為、新発田に転居したが、少年或いは青年時代の甘く苦い思い出はいつ迄も心に残ったのであろう。
楸邨の書屋号が「達谷山房」、戒名が「智楸院達谷宙遊居士」であることから、一関地方への愛着の深遠さが窺えるのではないだろうか。

加藤楸邨の詠草より10首を引いてみたい。
・面伏せてゐる教へ子よ面あげよ望近き月のぼりそめたり
・芋をつくりその芋を煮て教へ子がわれに食はすともたらしにけり
・棄てられた子犬が二匹藪かげで舐めあつてゐた寒い風の日
・もう一度生まれて来れば何するか猫とあらそひ妻とあらそひわれとあらそふ
・わが家の雄のくろねこは戦ひて果てしといへばゆるさぬ目をす
・楸(ひさぎ)といふ文字を彫りたる玉(ぎょく)の印も恐らくは火の中に失せけむ
・吹きしぶく海霧の眼鏡を拭ひをりかつて啄木もここに立ちにし
・女どもをあざむきしとふ男の顔新聞に見てなるほどと思ふ
・十七音は影にして肉体にあらずといふ論はあれどもわれは斥(しりぞ)く

世界文化遺産、天台宗別格本山毛越寺東側の側道から金鶏山の南側を通り、天台宗東北大本山中尊寺に抜ける観光道路の頂上部にあずま屋がある。
その直ぐ左手前に60トンもの丸みがかった大きな石塊が存在感を放っている。
そこには「邯鄲や みちのおくなる 一挽歌」と、加藤楸邨の句が刻まれている。
加藤楸邨は次のような意義深い言説を残している。
俳句的人間、短歌的人間を忌避している。人間が俳句に、人間が短歌に生きる。そこに対決的存在が起こる。
人間構造を一つにした俳句、和歌、詩、小説の橋が必要な時が来た。今まではジャンル的な封鎖世界であったが、向後 は人間構造的楷でなくてはならない。
俳句形式にとじこもることは必要でない。人間にこそ貞潔であるべきである。 と・・・。
                                        『加藤楸邨全歌集』より


フォト短歌「楸邨歌碑」


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