エッセイコーナー
211.混沌  2016年10月31日

3世紀の研究を経た1975年頃、世界中の数多くの科学者が3番目の種類の運動の存在を認識しているようになった。
この新しい運動は、多数の周期を持つ単なる準周期運動ではなく、また、必ずしも多数の粒子の相互作用によらない運動であり、非常に単純な系で起こりうる。尚且つ規則性を有さない種類の運動である。このことは、数理科学における決定論理法則が生み出す不規則運動、つまり「カオス」と呼ばれている。   (「カオス①」力学系入門)参照

森羅万象、この世のあらゆる現象は、規則性の中に不規則性を内包すると云った、相反する逆説性の矛盾の中に存在している。
つまり、この世の現象のあらゆるものに「絶対」という「決定論」を100%、つまり「全てである」と結論づけることに無理があるという現実に、本当の、唯一無二の真実が隠れている。
この「絶対」という概念は、「必ずしもありえない」と云う決定論を前提にして、これ以降の文脈を展開していきたい。

5年前の3月11日、未曾有の大災害をもたらした東日本大震災で、福島原発の悲惨な事故が日本中、いや世界中を震撼させた。
それ迄の日本に於ける原発の安全性は高く評価されており、「絶対に!」に近い認識で安全性を疑う余地もなかった。
その安全神話を、一瞬にして蜘蛛の子を散らすかのように信用、信頼を一気に失った。
先日の地元紙に、その除染費用の国民負担額が4兆2,000億円を超えたと記されていた。日本の人口で割ると、ざっと一人当たり33,000円余りとなる。

ただ、これで終わりではない。こうしている最中にも、じわじわと確実に汚染物質が滲み出し、汚染水となって増え続けている。いつまで続くかは誰にも見当がつかない。
更なる国民の負担は必至であり、また、現存する原発の廃炉費用は年間で数百億円と試算されていたが、最近になって年間数千億円が必要だとの発表があったばかりだ。それも、しわ寄せは結局のところ我々国民にくる。勿論、銭勘定のみに固執するつもりはない。況してや金銭では計り知れない損失が、現実問題として黙認する訳にはいかないのである。

そうしたなか、川内原発1号機や2号機、伊方原発3号機は再稼働し、高浜原発も稼働、停止を繰り返し、再稼働に向けて着々と進められている。もし万が一の時、陸路による非難の折、爆心地及び炉心に向かわねばならいという危険な現実をはらみながらもである。
核廃棄物の最終処分地はおろか、中間処分施設ですら揉めている状況だ。
いったい何故、これ程までに費用のかかる原発を、ひとつ間違えればとんでもない危険性を孕んだ代物を残そうとするのだろうか。

先ず何より、原発は膨大な危険物を内包している機械だと云うことを絶対に忘れてはならない。且又、機械はいつか必ず壊れるんだと云うことをしっかりと認識する必要がある。
核を持たない国として、世界にアピール、されど、「いつでも原爆をつくれるんだぞ」と云うことを世界に知らしめる為なのだろうか。
つい先日、国連総会の第一委員会で、「核兵器禁止条約」の交渉を開始する決議があった。
123カ国の賛成多数で採択されたが、唯一の被爆国であり、先頭に立って進めるべき筈の我が国が、反対に回ったとのこと。その理由として、「核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長し、その亀裂を深めるもの」とのことだとか……。

何れにしても私たち一般国民は、自然の空気や水を安心して吸い、飲み、平穏無事な日常生活を送れることを、ただただ願ってやまない。
お金は程々でいい。晴耕雨読、晴れた日には畑に出て額に汗しながら鍬や鋤で土を耕し、そこに種を撒き、それを収穫して食卓に並べる。春にはワラビやゼンマイなどの山菜に舌鼓をうち、秋にはマイタケやヒラタケの秋の恵みに感謝する。
夏にはすがすがしき風を肌身に感じながら渓流に釣り糸を垂れ、運良く釣れた尺超えのイワナに塩を少しばかりふりかけ、炭火で焼いていただく。そんな些細な営みに、私は心底から幸福感を感じる。
そんなチッポケで些細な幸せを、ぶち壊し、奪ってほしくはないのだが……。


フォト短歌「交わり」  


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