エッセイコーナー
797.メモ書きを参考にする演説の是非について  2023年3月30日

統一地方選挙・衆参補欠選挙の投票日が近づいている。
各党おのおの、選挙に向けて政治活動が活発化している。
そんななか、Youtubeである動画に不快感を覚えずにはいられなかった。
新進気鋭の党首で、これからの日本を背負って立つであろう人材として私は注目し期待もしていた。
ただ、とある地方選挙区で、候補者が街頭演説していた時、メモ書きに目を通しながら必死に、一生懸命演説していた。その時、「メモを見ないで喋るように」と厳しい表情で、聴衆の面前にも拘らず党首が注意をした。

確かに、政治と真剣に向き合う上で、メモを見ることなく、徹底して私見を展開することが正しいのかも知れない。
真剣さをアピールする上でも、確かに必要なことかも知れない。
党首の厳しい表情には、政治に対する真摯な姿勢、真剣さがひしひしと伝わってきた。
勿論そのことはしっかりと理解出来る。
ただ、しかしながら、況してや初めての政治活動による演説、人前で堂々と論理を展開するのは難しいことだ。
緊張して当然である。
緊張すればする程、云いたいことが表現できなかったり、頭が真っ白になり、自己嫌悪に陥ったり、自暴自棄になることだってある筈だ。

結婚式や会合の場で、多くの人たちを前にし、緊張してシドロモドロに話す人を見る度、メモを見て喋ればいいのにとよく思ったものだ。
人前で堂々と上手く喋る為には慣れも必要である。
今から半世紀以上も前、私が小学生の頃、学芸会での演劇発表の折、緊張のあまりセリフを忘れそうになったことがあった。また、児童会長として全校生徒の前で演説する時も、やはり緊張して話す内容を忘れかけたこともあった。
そのことを母に話すと、「人を馬鹿にしていない証拠だよ」と云われ、慰められたことがある。

それ以来、私は堂々とメモ書きを持ちながら話すようにしている。
前出のメモ書きを見ながら演説する、とある地方の選挙候補者も人を馬鹿にしていない証拠だと思う。
メモを見ずにちゃんと喋るには慣れが必要である。
問題は、そのことを皆の前で注意する代表の姿勢に、私は違和感を覚えずにはいられない。
候補者に恥をかかせるようであっては絶対にいけない。
注意するのであれば、演説が終わり、二人になった時に話せばいい。
ややもすると、イジメとも受け止められかねない行為であると私は思う。

トップとして自論を押し付けることは、権威主義へと変貌する可能性もあり得る。
「一線を越えた」ことへの反応なら未だしも、トップに立つ者は寛大であるべきであり、寛容の心を持って見守るべきだと思う。
この新党と党首に期待しているからこそ、敢えて書かずにはいられない。
ただ、前出の候補者が当選した暁には、官僚が用意した原稿をただ棒読みするような政治家にだけはなって欲しくない。


フォト短歌「ナズナ」  


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