エッセイコーナー
163.人類の幸福とは  2016年1月9日

世界各地で、宗教間の対立が引きも切らさない状況にある。
イランとサウジアラビアが国交を断絶した。イスラム教のスンニ派とシーア派の同じ宗教間の対立である。
マケドニア紛争やパレスチナ紛争、古くは十字軍とイスラムとの対立が万人の知るところだろう。
そのような対立は、普遍的真理への絶対的確信からくるものであって、益々対立の度合いを濃くするばかりだ。
その問題を根本から解決する為には、他を認め、排除する狭量の精神を根本から変える必要があるのではないだろうか。
他を認める寛容の精神こそが、世界に平和をもたらす根源であると云っても過言ではない。

幸い我が国日本の宗教感は、日本独自の仏教(一部を除く)の広がりにより、宗教間の対立はない。何故ならば他宗教を認める寛容の心があるからだ。
山本七平(故)氏及び小室直樹(故)氏が唱えた「日本教」なる概念がある。「人の世を作ったのは人だ」とする、古来から一貫した根元的思考を持つ日本教には、「教義」となる原則を有してはいない。
キリスト教やイスラム教などの一般的な宗教には、内容が一義的に明示されると云った厳格な「教義」がある。日本教でそれに相当するものが「空気」であると山本七平氏が説いている。ここで云う「空気」とは、まず、「絶対的一神との契約」という考え方が存在する国、地域、社会では存在しない。
その契約のみが規範性を有し、それ以外に規範はあり得ないとの考え方だ。

更には歴史的「時間」という概念もないことから、常に「今」を対象としている。
そのことから、「空気」は「教義」になり得るとも述べている。
即ち、日本教に於ける「教義」は、その環境に於ける「空気」である。
そんな「空気」に包摂される、神仏習合、他宗教をも認めると云った寛容の精神を有する日本独特の宗教感こそが、今、世界、社会に求められているのではないだろうか。

昨今の右肩が重くなるような世界情勢の中で、平和を唱える多くの宗教家たちが、日本独特の宗教感を有する「日本特有の仏教」に期待を寄せているという。
「宗教の本質」は盲目的に一つのものを信じることではなく、他宗教を認め、許すことの寛容さを持つことが必要ではないだろうか。
また、宗教の持つ根源的な意味は、我々人間にとって、平和と安全、そして心の安らぎとなる幸福感を享受できるところに、本来の意味があるのではないだろうか。そしてまた、我々人類の本当の幸福とは、世界の一体感、いや宇宙の統一性の自覚を分母とする上に存在する、尊い感情そのものではないだろうか。

『人間(じんかん)にすみし程こそ浄土なれ悟りてみれば方角もなし』
この一首は親鸞上人が詠んだ和歌だが、即ち人間として生まれてきたこの世こそが、浄土そのものであると説いている。 その神聖で清らかな浄土を、人間自らの手で汚すことほど愚かであると云わざるを得ない。
「宗教の本質」を是非とも再認識して頂き、我々人間が、「命」を授かり、「生」を閉じるまで、未来永劫安らかな浄土であることをただただ願うばかりである。

 



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