エッセイコーナー
57.無縁社会の行方  2013年7月25日

身元不明者の無縁死が増えているという実態を、3年ほど前、ドキュメントにした某放送局の番組があった。自宅の居間で他界したにも係わらず、身元の確認が出来ないとの理由から、氏名不詳となるケースが増えているとのことだった。前出の放送局の単独調査によると、当時約3万2千人もの身寄りのない単身者がいるとの実態が明らかにされたが、今尚生涯未婚率が年々増加の一途を辿っている。家族単位から、個人単位へと変化している実態が浮き彫りになっているようだ。その理由として、将来への経済的な不安が大きな要因であると指摘されている。

無縁社会はなにも高齢者に限ったことではない。若者の間にも増えてきているようだ。都会に出た若者が、職を失い食うや食わずの孤独な生活を強いられている。家族を頼り、故郷に帰れば良さそうにも思うのだが、そんな姿を親には見せられない、他人に迷惑をかけたくはないと益々孤立化している。正しく無縁社会の象徴である。また、この無縁化現象は都会特有の社会現象として捉えられていたが、最近では私が住む片田舎でも、人間関係の希薄化とともに孤立化が進んでいるように感じる。 「明日は我が身か?」

あるNPO法人の代表者は、「助けてくれ」と言えない社会に問題があると指摘していた。社会が社会である為には、素直に助けてくれと言えるようでなければならない。社会との絆を失い、家族との絆をも失いつつあるのが昨今の現状だ。
海外では、社会的包摂、社会的廃除問題として捉えられ、国の政策として真剣にこの問題に向き合っている。日本政府においても絆の部分と制度の枠組みを作り、この問題を早急に解決してもらいたいものだが、ただ一方では、他人の干渉を拒み、孤独を良しとする考えも強ち否定するものではない。何時の時代であれ、無縁仏を祀る無縁塚が存在するように、少なからず家族や社会との縁や絆を失い、孤立化する人達が存在したということも厳然たる歴史の事実である。

しかしながら最期を迎えるにあたり、「ああ我が人生悔いなし」と家族や友人らに看取られることを願うのは誰しもだろう。その為にも困った事や悩み事があれば、積極的に相談を持ちかけ、またその反対に相談役を引き受けるなど、地域の集会やサークル活動に積極的に顔を出すなどして、自分から積極的に絆作りを実践する必要があるのではないだろうか。
日本全土が喪に服した東日本大震災の惨劇を目の当たりにし、 「絆や舫い」といった合い言葉が全国で叫ばれ、日本特有の和の精神が改めて確認された。
その崇高で尊い思いやりの心を、いついつまでも持ち続けられることを、ただただ願うばかりだ。

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