エッセイコーナー
27.農と道徳  2010年11月19日

イジメによるとされる自殺が後を絶たない。連日のように報じられている。当人の辛かった胸の内や、残された家族の事を思うと胸が締め付けられる思いで一杯だ。
余りにも切な過ぎる問題である。学校側の管理責任の問題が問われているようだが、イジメの定義も色々あって、力による暴力や圧力の行使、集団的リンチや精神的ダメージを与えるといった卑劣でしかも陰湿な行為によるイジメが多い。
近年特に悪質化してきているようだ。

先日起きた桐生市の小学6年女子生徒の場合は、精神的苦痛が死に追いやった最大の原因のようだ。
「のけものにする」「陰口を言う」など、陰湿でしかも卑劣な行為だが、全ての生徒がそうしたいと思ってやっている訳ではないだろう。
周りがそうするから、知らず知らず、或いはしょうがなく一緒になってやっていた、という群衆心理が自覚の無いまま働いて、精神的にも未だ未熟な子供の為、止むを得ない部分もあるのかも知れない。
問題はそれを野放しにしている親や教師、つまりは大人達だ。ただ、親は学校内での状況や出来事などを把握する事は極めて困難だろう。

我が子が、学校での出来事を全て包み隠さず話してくれれば解決策も見つかるだろうが、子供達は「恥じ」だと思ってなかなか話そうとしないのが現状ではないだろうか。
そうなると教師の監督不行き届きという事になるが、仮にその兆候を認識していたとしても、今回の場合はどうかは分からないが、文部科学省の指導により、イジメが発覚する事によって、学校や教師に対する点数が下がるという事もあって、報告せずに隠蔽してしまう、有耶無耶にしてしまうケースがあるというではないか。
聖職者である教師としてあるまじき行為であって、理解に苦しむ事態だが、この問題に関しては文科省にも大いに責任はあるのではないだろうか。

前出の学校内部での状況把握の問題に戻るが、無論、学校側にばかり一方的に押し付けるのもどうかと思う。
集団生活において必要で重要な事は他人への思いやりである。それについての教育は、各家庭での教育が肝要だが、家庭環境によってもかなりの開きがある筈だ。
その為にも、集団生活においての道徳教育が最重要課題であると確信している。嘗て、組合の圧力により道徳の授業が一時廃止になったと記憶している。

「教員は読み書きだけを指導すればいい」とする言わばサラリーマン化が進み、「生徒をなんとかしたい」と情熱を持って教壇に立つ先生、つまり熱血教師が、教職員の間で逆に煙たがれる存在になるとの指摘もあった。
ひどいところではエレジー(異端者)扱いする学校もあると言われている。
その原因の一つに、教育を取り巻く社会環境に問題があると考えられる。嘗ての熱血教師は、生徒達に注意したにも係わらず、とぼけた態度をとる生徒に対して平気でビンタを喰らわしたものだった。

個人差があるとはいえ、子供は理解力がありそうでいて無いのが生理的現実だが、そんな時は、痛い思いをする事によって「これは間違いだったな~」と言う事に初めて気付いたり、学習するものだが、しかし今の教育を取り巻く社会環境では、ビンタして頬にちょっと触っただけでも問題になったりする。
「暴力だ」と直ぐにはやし立てられる。早速マスコミに大きく採り上げられ、社会的圧力を受けてしまうのが現状だ。

特定の生徒が憎くたらしくて暴力を振るうのは正しく暴力だが、悪い事をやったり、集団で陰険なイジメをやったり、陰湿な陰口をたたいたりするような行為に対しては、徹底的に注意し、それでも理解できないようであればビンタぐらいどうどうとやれる環境が必要ではないだろうか。
但し、せっかんする場所も考えてやるべきであり、見せしめのように、大勢の生徒が見ている前で正座をさせたり、恥をかかせる行為などは絶対にやるべきではない。
生徒によっては、取り返しのつかない精神的ダメージを負いかねない結果となる。

大勢の前で恥をかかせる行為などは、陰湿ないじめと何ら変わらない悪質な行為だ。そんなデリカシーの無い教師は教員としての資質が疑われて当然だ。
それらの陰湿な行為を避ける上でも、皆から見られない場所、密室が良いという事になるが、注意していてエスカレートする可能性が無いとはいえない。そんな事からも、校長が見ている前や職員室が良いのではないだろうか。

勿論、本来であれば体罰(愛のムチ)など出来る事なら避けるべきだが、その為には、徹底した道徳教育が必要になってくるのではないだろうか。
全てに於いて、性悪説で見るべきだとは思わないが、事の善悪は教えなくとも分かるものだという考えはあまりにも楽観的過ぎるように思う。つまり、道徳教育は必要不可欠な授業の一環であると言える。
集合的或いは社会的な次元としての規範となるのは倫理だが、共同生活を行う上で、個人の内面的な規範として道徳は必要不可欠であるといえる。

そして、その道徳教育の一つとして、農業の実習体験をさせることは非常に有益で有効的な手段であると考えられる。
実習現場となる農地の問題は、ちょっと足を運べば沢山眠っている。
そう休耕地、遊休地である。
高齢化や後継者不足に伴ない、殆ど手つかずの耕作放棄地が沢山あるではないか。
生きる為に一番必要なものは何かと問えば、先ず食べる事である。食べなければ人間のみならず皆死んでしまう。
今はスーパーやレストランに行ってお金さえ払えば、何でも手に入り、何でも食べられる時代だ。
ところが、その料理の材料である米や野菜、果物や乳製品、魚貝類や牛肉豚肉などは皆、農家や漁師が汗水流し、時には命をかけながらも真剣に栽培したり、漁をしたものである。

平然と、ただ当たり前のように陳列されてあるものであっても、その背景には色んな思いや苦労があるということを先ず知るべきである。そして感謝することが重要ではないだろうか。そうする事により食育にも繋がってくる。
勿論それだけではない。

寧ろ前出のこと以上に大切かもしれないのが、皆で味わう収穫の喜びである。
皆で手を加え、汗水流して育て上げた大根やホウレンソウ、或いはリンゴや葡萄などなど、同級生全員で収穫の悦びを知り、皆でそれらを料理して食べる。
さぞ絆や連帯感も生まれるのではないだろうか。
いじめを全て「無くす」ことは無理だとしても、生きた道徳教育に力を注ぐ事によって、間違いなくイジメは減ると確信して止まない。

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