エッセイコーナー
51.スポーツの意義とは   2013年1月17日

未来ある筈の高校生が、体罰に耐えかねて自ら尊い命を絶ってしまった。試合の敗退やプレーのミスに対して、部活のキャプテンとしての責めを負わされた恰好のようだった。
このような体罰は、教育の一つの形として、決して甘くはない社会や世の中に出る為の訓練として、或いは励ましとしての激励によるものとは明らかにかけ離れていた。
無抵抗な生徒に対する一方的な制裁、ミスしたことに対する腹いせの感情的暴力行為としか思えない行為には、ただただ憤りを覚えるばかりだ。ミスは誰にだってある。

チームプレーを一番に重じている筈のキャプテンともなれば、尚のことミスに対する負い目や、申し訳なさに苛まれていた筈だ。
一方的で尚且つ理不尽な感情的体罰は、決して躾や教育の領域から逸脱した行為であり、単なる暴力であると言わざるを得ない。ただ、躾として昔からあった「可能性の芽を摘まない愛のムチ」的な、節度を持ち、決して感情的或いは刹那的な行為ではなく、尚且つ生徒らの為をひたすらに思い、真剣にその子供らの行く末や将来を案じた「愛のムチ」まで否定すべきではないと私は思っている。

ただ今回の体罰は、ミスしたことに対する「腹いせ」の感情的行為であり、過去に数々の実績を積み、その責任感からくる監督の勝つことへの執着心が、このような行き過ぎた体罰となり、一人の、未来ある有望な若者の不幸を招いてしまったことは、返すがえすも残念でならない。
このことにより、生徒らを社会の厳しい荒波に送り出す為にも、ある程度の厳しさを備え、節度を持ちながらも真剣に指導にあたっている教師らの今後の教育姿勢の萎縮を招くことは、大きな社会的損失に繋がるといっても過言ではない。
それに加えて執拗なまでの政治介入は些か問題があるのではないだろうか。

運動部として、「勝つこと」の過剰な執着心(勝利至上主義)による行き過ぎた指導は問題がある。本来なら、勝つことばかりがスポーツの意義ではないということを指導者が教示するのが教育の筈。
プロの世界であるならば「勝ってなんぼ」の世界。勝利への拘りは至極当然といえるかもしれないが、彼らはアマチアであり未だ高校生だ。外見的には立派な大人に見えても16・7才の子供である。

昨年のロンドンオリンピックではメダルラッシュに日本中が沸いた。その要因の一つに、有望な選手や団体への過去に例を見ない優遇措置(特別扱い)がその背景にあったことはご周知のとおりだ。
そもそも、順位や勝敗を決める勝負の世界は、負ける選手、4・5位の選手や団体がいるからこそメダル獲得の栄誉を手にすることが出来るのであって、参加者全員がメダルを獲得することなどあり得ない。
メダルに届かなかった4位や5位、10位や15位、或いは初戦敗退の選手らに於いても実に尊い選手であり、価値多き団体として見做すべきである。強いこと、勝つことを決して否定するものではないが、メダル獲得が全てでなければ正義でもない。

スポーツの本来の意義とは、個々人の立場に於いて述べるならば、体力の増進や運動能力の向上、ストレス発散による精神的充足など。特にストレス解消の効果は、健康的な日常生活を送る上でも非常に重要である。
また、社会的側面からみたスポーツの意義としては、どのスポーツにも必ずルールが存在するが、それらのルールは社会的規範に通じるもので、そのルールを守ることによって社会的な常識を学び、社会的ルール遵守の必要性を身を持って知ることに繋がる。
自己責任や他人への思いやりなどのコミュニケーション能力育成にも大きく寄与している筈だ。
「スポーツは決して勝ち負けだけではないのだ」ということを、改めて指導者や父兄、そして学生当人たちにも真剣に考えて頂きたいものだと思っている。

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