エッセイコーナー
793.看過できない悪しき冤罪事件  2023年3月19日

「すまなかった」では絶対に済まされない一つに、「冤罪事件」がある。
冤罪とは「無実であるのに、濡れ衣を着せられるなど、犯罪者として扱われること」を云う謂わば検察や裁判官の「過ち」によって有罪と確定されることを云うが、過去には免田事件島田事件のように、再審請求を受理され、無罪判決となったケースもある。
また、1990年5月には、4歳の少女が殺害された「足利事件」があるが、元被告人の菅家さんが、当時のDNA鑑定の未熟さから犯人と断定され、1993年に無期懲役をいい渡され、2002年の最高裁で一旦有罪が確定された。

しかし同年に弁護側は最高裁に再審請求を提出。その後再審請求の即時抗告審で、東京高裁は2008年12月に弁護側が要求したDNA型再鑑定実施を決定した。
翌年の2009年5月、真犯人のものとみられる試料と、菅家さんのDNA型が一致しないことが判明した。
菅家さんは17年にも及ぶ長きの間、犯人として扱われ、想像を絶するであろう辛酸を舐めながらも、自由を奪われ、身動きの取れない鉄格子の中で監禁されていた。

先日の3月13日、上記の足利事件と同じ様な、冤罪事件として扱われそうな判決がくだされた。
1966年6月、静岡県の味噌製造会社専務宅で一家4人が殺害(袴田事件)された。元従業員の袴田さんが犯人とされ、死刑が確定していた。
しかしながら、その証拠とされた味噌樽に入っていた血痕のついた着衣が、後から、誰かが故意に入れたものとみられ、東京高裁は再審開始を認める決定を下した。
すなわち無罪の可能性が極めて高いと判断されたのである。

このような冤罪は絶対にあってはならない。
今から40数年前、私も大学では法律を学び、ゼミは刑事訴訟法を専攻したが、冤罪だけは絶対にあってはならないものと、つくづく考えさせられたものだった。
この冤罪をなくす為の方法の一つに、「取り調べの可視化」が必要だが、はたして今現在どうなっているのだろうか。
もし未だ実現されていないようなら、一刻も早く実施させるべきである。
そうすることにより、取調べの実態も把握でき、強要を強いられる「自白への追い込み」も解決されるものと期待できるのではないだろうか。

また、それと同時に、責任問題も明確にすべきである。
今迄は組織としての責任問題、或いは為政者や官僚らが誤った施策を講じたとしても、国家賠償法と同じように取調官個人には何の責任も発生していない。
このことが絶対にあってはならない「冤罪事件」を生む大きな要因であると私は思っている。
国政についても云えるように、責任の所在をはっきりとさせ、追求しない限り、悪しき「冤罪事件」を葬り去ることは出来ないのではないだろうか・・・。

フォト短歌「冤罪や」  

呆れてものも云えないが、立民の議員らによる悪魔の証明を元高市総務大臣に迫り、冤罪事件とも云える「貶め」「イジメ」が参院予算委員会の場で展開されている。
立証責任は寧ろ文書を提示した側にあり、行政文書としての信憑性を証拠を持って立証する必要がある。
と云うのも、過去に何度も、行政文書とされたものが、改竄、捏造されていたではないか。
立民よ、そんなことをやってる暇があるんだったら、国民の為になる仕事をやるべきであり、どうしたらこの国を立て直せるのか等々、野党第一党として真剣に取り組み、勉強し直してほしい。


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