エッセイコーナー
552.後藤新平待望論  2020年12月7日

新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない今、嘗て予防医学の重要性を説き、持ち前のスピード感と実行力で帰還兵の大規模検疫を行い、水際対策をしっかりとやり、コレラなどの伝染病から日本を救った人物である後藤新平の記念館を訪れてみることにした。
記念館と棟続きの南側には、後藤伯記念公民館がある。
「公民館」と云えば、日本全国津津浦浦、市町村には欠かせないお馴染みの交流施設であり、生活文化の振興や社会福祉の増進に寄与することを目的とする公共施設である。
その公民館発祥の地が、岩手県水沢市(現・奥州市水沢区)であり、後藤新平記念館と棟続きになっている。

1941年読売新聞社創業者の正力松太郎が警視庁官房主事時代に、当時内務大臣であった後藤新平から受けた恩に報いるべく、後藤新平の出生地である岩手県水沢市に公会堂を作って欲しいと、当時の金額にして20万円を寄付した。
それを元に建てられたと云われている。
「公民館」と云う名称は、後藤新平の甥で元自民党副総裁の椎名悦三郎が名付けたとのこと。
その公民館と棟続きに建っているのが、前述した後藤新平記念館である。

2階建の記念館には、後藤新平が幼少期に愛用した物や、東京市長、外務大臣、内務大臣として国政を担う迄の多くの貴重な資料が収められている。
なかでも、力による圧制をよしとせず、台湾の風土を理解し、住民の意思をしっかりと受けとめ、穏便に、しかもスピーディーに台湾の近代化を進めた。
満鉄総裁当時は文装的武備を念頭に、鉄道のみならず炭鉱や学校、ホテル、病院などを建設して衛生面の充実を図り、満州の近代化に大いに貢献した。

また、何と云っても後藤新平の実践力、実行力を遺憾なく発揮したのは東京の再建であろう。
前後するが、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災により東京は焦土と化し、壊滅状態となった。
山本権兵衛首相の強い要請を受けた後藤は、内務大臣兼帝都復興院総裁に就任。
復旧、いや復興を目指した。
復興予算の要求にあたっては、国家予算の3倍に及ぶ予算を要求した。ところが、大蔵大臣経験者の高橋是清ら政界重鎮の反発により、試算額の4分の1以下と、大幅な削減案での復興を余儀なくされた。

しかしながら後藤は諦めなかった。
思案に思案を重ね、区画整理などの妙案を導き出し、100年後を見据えた東京の復興に心血を注いだ。
また、前後するが、3年前の1920年の東京市長時代には、道路の狭さや衛生面の悪さなど、江戸時代から続く、とても日本の首都とは到底云い難い状況を一掃すべく、プロジェクトチームを作り、東京大改造計画を立てた。
その予算額は当時の国家予算13億円の約6割、8億円の予算を国に提示した。
ところがやはり政界の重鎮らから猛反発を受け、皆から「大風呂敷」と揶揄され、不本意ながら東京市長を辞すことと相成った。

もし、東京市長時代や内務大臣兼帝都復興院総裁当時に後藤が要求する復興予算を組んでいたとしたら、第二次世界大戦下の1944・45年の東京大空襲を受けながらも、多くの犠牲者を出さずに済んだのではないかと、昭和天皇が仰っておられたとか。

冒頭でも触れたように、現在、地球規模で新型コロナウイルスの猛威に喘いでいる。日本でも日を追うごとに感染者数が青天井の如き増えている。
感染防止対策と経済政策を同時進行でやらざるを得ない状況は確かに理解できる。
Gotoキャンペーンも必要かも知れない。しかしながら、感染者の増加に伴い医療崩壊が現実味を帯びている状況下、徹底した感染防止策を打つ必要がある。

その為には、MMTなどの貨幣解釈を再度見直し、熟考しながら、ベーシックインカムやAIの活用も視野に入れ、早急に対策を練る必要があるのではないだろうか。
Gotoキャンペーンの中止に伴い、損害が発生した企業や個人に対して、迅速に救援する為にも、大胆な財政出動が必要ではないだろうか。
その為にも、後藤新平のような、大胆さと、スピード感、実行力を兼ね備えた強烈なリーダーシップを持つ、時代の申し子、時代の寵児の登場を待望するのだが……。


フォト詩歌「後藤新平待望論」

その他の写真>>


≪return    Tweet   
 スポンサード リンク (Sponsored Link)