エッセイコーナー

669.井上ひさしさんの青春の一コマ  2022年2月20日

「東北人は内気だとも云われるが、仲間うちでは実に多弁であり、東北人は自分を笑えるユーモアがある」と云ったのは同じ東北(山形県川西町)出身で、直木賞作家の井上ひさしさんである。
母親のマスさんが知人の浪曲師に全財産を騙し取られ、一家は離散してしまった。その後母親と兄、弟の4人で1949年(昭和24年)に一関に移り、約半年間、一関で過ごしたとのこと。

当時の想い出を井上ひさしさんは次のように述懐している。

「昭和24年、家の事情で山形県の南部の小さな町から、生まれて初めて奥羽山脈を越え、一関中学に転校しました。丁度、一関は水害の堤防工事で大変なとき、西部劇の舞台みたいに賑やかでした。一関中学の3年に編入しましたが、みなさんが本当に親切にしてくれまして、たった半年でしたけれども、当時の半年のつき合いで、親友が未だに4、5人おります。
その時に、堤防沿いに飯場があって、そこにお袋と兄と弟が住んで、お袋が大建設会社の下請けの、さらにその下の土建屋の親方で、兄がそれを手伝っていました。その飯場が、実は世嬉の一さんの蔵だったんですね。すぐ、世嬉の一さんに新星映画劇場という映画観ができまして、時々モギリの手伝いをしたりして、そこに入り浸って、沢山いい映画を観ました。そういう意味で一関は、新しい友達が出来たり、映画を毎日のように観たり、大きな本屋があったりして、初めて大都会へ来たという感じがしました。初めて世の中の陽が当たる所へ出たという気がしました。

  いちのせき文学の蔵(井上ひさしさんからの応援メッセージ)より抜粋  出典:今村詮さんの「一関と文学」より

半年間暮らした一関を後に、仙台市に移り住んだ井上ひさしさんは仙台第一高等学校に入学し新聞部に所属。
その新聞部でのエピソードがまた実に面白い。
同部の1級先輩に、かの、仁義ある社会派俳優の菅原文太がいた。
部室の中で、文太先輩が紫煙をくゆらす姿を見てしびれたそうだ。
名文だと思って書いた原稿を文太先輩に渡すと、「つまらない」と破られたそうだ。

また、ライバル校である仙台二高との野球試合で、実際には負けたにも係わらず、勝ったものとして観戦記を書いて騒ぎになったこともあったそうだ。
それを指図したのが、菅原文太先輩だったとのこと。
また、市内全ての女子校の看板を集めては文化祭の催しで並べるなど、磊落で奔放な青春時代を謳歌したようだ。
私もひとのことは云えず、親近感を覚えずにはいられないエピソードである。

その井上ひさしさんの支援を基に、今も続いている公設民営の一関・文学の蔵発刊の年間誌『ふみくら6号』の編集会議が、本日、蔵元レストランせきのいちで行われた。
地元の高校生らの寄稿もあり、原稿は順調に集まってきているようだ。
発売は6月上旬の予定。価格は定価660円(消費税込み)。
北上書房、東山堂(各店)、さわや書店、日野屋ブックセンター、小原書店、一BA(いちば)、一関市役所売店、いちのせき文学の蔵の受付で販売予定。

フォト短歌「ひさしさん」  


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