エッセイコーナー
399.人生の甲子園  2019年7月26日

夏の甲子園目指し、各都道府県の代表をかけて高校球児らの熱い戦いが繰り広げられている。
一つの勝ちは、一つの負けに支えられる。勝っても負けても、それなりに価値がある。

今日現在、15校が代表を決めた。
わが岩手県では昨日代表校が決まった。
菊池雄星選手の左腕が唸った2007年。大谷翔平選手による投打の活躍が話題を呼んだ2011年。今年も岩手県では安定した強さをみせた花巻東高校が甲子園の切符を手にした。
それも前出の2人をはじめ、個人の能力を最大限に活かし、生徒らが全幅の信頼を寄せ、チームがひとつになれるような指導と統率力が評判の佐々木洋監督の影響は実に大きい。
是非とも今夏の甲子園でも岩手旋風を巻き起こしてもらいたい。

また、今回、決勝で破れた大船渡高校の佐々木朗希選手はマックス163キロの剛速球投手、しかしながら決勝戦ではその勇姿を見ることは出来なかった。
163キロ超えの超豪速球を甲子園でも見たいと、全国の注目を集め、期待されていた。
もし、佐々木選手が登板していたならば、優勝の確率は極めて高かったのではないだろうか。
しかしながら敢えて、大船渡高校の國保陽平監督は佐々木選手の登板を決めなかった。4回戦では194球の完投、準決勝では129球を投げるなど、佐々木選手の疲労や怪我を考慮しての苦渋の決断だったようだ。

地元大船渡市民や高校関係者は、何故佐々木選手を登板させなかったのか、出れば甲子園に行けた筈だと悔しがったかもしれない。しかし、それ以上に、甲子園を目指して辛い練習に耐えてきたチームメートは想像以上に、悔しいと思った筈だ。しかしそれ以上に、悔しかったのは佐々木朗希選手本人であったろう。
ただ、私は、それら以上に、散々悩み抜いた挙げ句に、決断を下さざるを得なかった國保陽平監督が一番悔しかったのではないかと思っている。

私も競技種目は異なるが、地方の競技団体の責任者、また指導者として、選手への負担について悩み、葛藤を余儀なくされた経験がある。チームとしての勝利を最優先に考えるならば、選手への負担が大きくなり、怪我のリスクは高まるだろう。少々の怪我はつきものだが、選手生命を奪いかねない怪我は、選手の将来を考えるならば避けるべきである。
それと同じことを大船渡高校の國保陽平監督は思い悩み、苦しみながら苦渋の決断を下したのではないだろうか。その決断は英断以外のなにものでもないと私は確信している。
甲子園の土を踏むことは叶わなかったが、この悔しさをバネに、人生の甲子園を目指し、頑張っていただきたい。

決勝後のインタビューで、佐々木朗希選手が「大船渡高校を選んで本当に良かった」と答えていたが、実に印象的なひと言であった。


フォト短歌「紫陽花群」  


≪return    Tweet   
 スポンサード リンク (Sponsored Link)