エッセイコーナー
462.無沙汰の非礼  2020年2月22日

昨日、伊藤清彦さんの葬儀に出席した。
65歳、あまりにも早い死である。
多くの参列者に見守られ、悲しみのなか、見送られながら伊藤さんは黄泉の世界へと旅立たれた。
告別式最後の挨拶を、遺族を代表して22歳のご子息(喪主)が朗々と読み上げる姿が、実に印象深かった。

葬儀の会場は一関市東山町長坂東本町の安養寺(曹洞宗)。約半世紀ぶりの訪問である。
私は中学1年の頃、半年ほどだったと記憶するが、毎週末バスに揺られて安養寺に通った。
と云うのも、当時、安養寺ご住職の佐藤光寛先生が書道教室を開いており、手習いの為にであった。
私が書道を習い始めたのは小学4年の頃。
私の曽祖父や祖父は、漢詩を自作し、襖や屏風などに揮毫し、それに山水画を描くのが趣味で、座敷などにその作品が今でも飾ってある。私はそれを見て育ったことから、書に多少の興味を持っていた。
しかしながら始めた最大の原因は違うところにあった。

当時、小学校の担任が、活発過ぎて落ち着きのない私を少しでも落ち着きある子どもにした方がよいと、同じ教員仲間であった私の母に提案したのが、そもそもの切っ掛けとなったようだ。
書道を習い始めた小学4年当初は、一関市田村町にあった書道教室「墨心会」の梅津鳴上先生に手ほどきを受けた。一歳年下の妹と2人、バスで通ったことを思い出す。

書道を習ったとは云っても、後で母に聞くと、当時流行っていた「なんとかかんとか真っ黒けのけ、ああ、真っ黒けのけ・・・」と云うCMの替え歌を作り、梅津先生がいないのを見計らっては「梅津鳴上、真っ黒けのけ、ああ、真っ黒けのけ・・・」などと、墨をあちこちに塗ったくっては遊んでばかりいたそうだ。
当の本人は全く記憶にないが。
ともあれ、そのことが切っ掛けで書道を始めたのである。

その後、中学に進むと、流石に腕白さや落ち着きのなさは解消されたか、妹がピアノ教室に通い始めたこともあって、私は一人で東山町の安養寺、佐藤光寛先生の下で書道を習い始めたのだった。
昨日、伊藤さんの葬儀の為、安養寺の境内に半世紀ぶりに足を踏み入れると、当時の思い出が走馬灯の如く甦ってきた。
本堂に入ると、右奥の壁面上部には歴代のご住職の遺影写真が飾られてあった。一番手前が佐藤光寛先生だ。
実に懐かしかった。写真に向かって合掌し、黙礼しながら暫しその場に佇み、無沙汰の非礼をお詫びしてから葬儀の席に着いたのだった。


フォト短歌「墨の香り」  

私は若い頃から詩に興味を持っていた。宮沢賢治や草野心平の影響を多分に受けたが、なかでも特に傾倒したのが哲人であり詩人の山尾三省さんだった。
弱冠二十歳の頃、私は弟子入りを志願すべく、鹿児島県屋久島の山尾さんのご自宅を訪れた。 詳しくは>>



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