エッセイコーナー
165.悲しき知らせ  2016年1月13日

悲しい知らせがあった。
高校時代の恩師が他界されたとのこと。まだ、71歳である。
2ヶ月ほど前、親類の一人がやはり71歳で他界し、それ以外にも親類が2人、近所でも3人とこの2ヶ月ほどで6人。
先生を含めると7人の訃報を聞いたことになる。
生きている以上は、必ずやいつかはあの世から迎えが来る。免れ得ぬ現実であり、絶対に避けることの出来ない運命だ。

恩師はバケガク(化学)の先生で、実に勤勉な方だった。
弓道部の顧問だったと記憶している。
出身は岩手県北の沿岸部(久慈市だったと思う)。
転勤で水沢市(現在は奥州市水沢区)に引っ越し、学校近くの真城が丘団地に一軒家を建て住んでおられた。
先生を心底慕う友人から、「おもしれくて、すげぇ先生いるがら一緒に遊びさ行くべ!」との誘いに、「ほんじゃ行ってみっが」と、以来何度か先生宅にお邪魔することになった。

云い方は悪いが、先生は教師然とした方ではなく、とても温厚で親しみやすい人柄だった。
当時私は師を師とも思わぬ高慢な無頼の徒、不逞の輩であったが、そんな私をも心優しく受け入れ、決して偉ぶることな
く自然体で接してくれた。
前述の通り当時は弓道部の顧問をしていたが、「実は弓道の経験はないんだよ」と話していたことをうっすらと記憶に残っている。
その為、 知識を補う為には身長の半分ぐらい、弓道に関連する本を片っ端から読みあさり、徹底的に勉強したとのことだった。

何か新しい事に臨む際は「まず本を読め、身長の半分ぐらい読むと殆どの事が観えてくるぞ」と話していた。
今でもその時の確信を得た先生の表情が、とても誇らしく、自信に満ち満ちた在りし日の姿が目を閉じると走馬灯のように蘇ってくる。
私も見習わねばと思いつつも、あれから30余年の歳月が経つが、未だに遂行の証跡はない。

・寂しさに宿を立ち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮れ (良暹法師)
・山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば (源宗于朝臣)
・かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける (中納言家持)

百人一首をこよなく愛し、かるた七段の腕前を持ち、三分の百首かるた協会の理事長であり、盛岡かるた協会の代表を務められた佐々木信男先生に、心より哀悼の誠を捧げます。安らかにお眠りください。


 



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