エッセイコーナー
243.思い出  2017年5月24日

昨日、五月晴れの下、第69回岩手県高等学校総合体育大会の総合開会式が、盛岡市みたけの県営運動公園陸上競技場で行われた。開会式終了後は、各校の誇る応援による応援合戦が繰り広げるのが伝統となっている。
私の高校時代の思い出ベスト3に入るのが、今から40年ほど前の、この高総体総合開会式である。

一番の思い出はと云えば、修学旅行の折、京都比叡山根本中堂前の石階段での校歌斉唱の為、タクトを振った時のことだが、観光に訪れていた中高年のオジさんたちから涙を流して歓ばれた思い出が、今でも脳裏に鮮明に蘇る。
弊衣破帽による蛮カラスタイルの応援風景が懐かしかったのだろう。
高総体での総合開会式の思い出は、この修学旅行の次ぐらいに印象に残っている。
当時母校の応援スタイルは、和太鼓と発声のみだった。殆どの高校はブラスバンドを引き連れており、管弦楽の高音域は迫力満点だが、それに圧倒されまいと必死に声を張り上げたものだ。

今回で69回目、来年は70回目を迎える。
県高体連は、参加生徒の経済的負担軽減や、生徒減少に伴う分担金などの収入減を理由に廃止を検討していると云う。
来年2月の評議員会で、存廃が決定される見通しのようだ。
一般的に、伝統ある行事を廃止するとなるとかなりのエネルギーが必要とされる。通常、話し合いでの存続案が正論として位置づけられ、廃止案は曲論、或いは異論として扱われるのが一般的だ。
県高体連の廃止案は何れも金銭的な理由のようだ。昨今の社会風潮とでも云える合理性に執着するかのようだが、果たしてそれが全てなのだろうか。

生徒たちの思い出作りの為にしては、予算がかかり過ぎると云うことだろうが、「運営組織の為」よりも、都民ファーストならぬ生徒ファースト、選手ファーストを念頭に置いた組織運営を心掛け、実現すべきではないだろうか。
この世知辛い世の中に対する起爆剤としての、「アンチテーゼ」と云えるのではないだろうか。

「幼年時代の思い出から得た神聖な貴重なものなしには、人間は生きてゆくこともできない」
                               フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
少年時代もまた然りである。


フォト短歌「思い出」  


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