エッセイコーナー
476.高村光太郎『典型』  2020年4月10日

先月、花巻市太田の高村光太郎記念館を訪れた。光太郎翁65回忌命日の2週間ほど前のことだった。
あいにく新型コロナの影響により記念館は閉まっていた。記念館の裏手に光太郎翁が7年間過ごした高村山荘がある。
敷地内を流れる小川のせせらぎを耳にしながら、高村山荘へと向かった。
光太郎翁が実際住んでいた小屋を風雪から守るため、套屋によって保護されている。
本来なら中に入って実際に小屋を見ることができるが、生憎の休館。套屋の窓越しにのみ確認する以外に、確認のしようがなかった。
小屋は3分の1が土間で、板の間や囲炉裏、あとは3畳ほどの畳が敷かれた小さな杣小家である。
厳冬期は厳しくも、外の寒さを障子一枚で凌いでいたようだ。その酷烈さは想像を絶するほどではなかったのではないだろうか。

光太郎翁はご周知のように、彫刻家や画家として、詩人や歌人、或いは随筆家や書家として八面六臂の活躍をしていた。彫刻については、当時、当代随一の仏師と云われた父、高村光雲の血を受け継いでおり、彫刻の腕前については云うまでもない。文学に関しては、宮沢賢治同様、短歌がその基盤にあるようだ。
ある書籍によると、18歳(明治33年)から短歌を始めたとあるが、『高村光太郎全集第11号』には16歳からの歌稿が載っている。その全集によると、明治32年(16歳)から昭和28年(70歳)までの間に、686首の短歌を詠んでいる。
ただ、その間、明治44年から大正6年までの8年間、一首も短歌を詠んではいないようだ。
一説によると、短歌の抒情を離れ、詩の造型へと突入したとの見方があるようだ。その切っ掛けとなったと考えられるのは、アメリカに留学後、ロンドンに渡り、その後、明治41年にはフランスのパリを訪れた。その時に、ブエルレーヌやボードレール、ユーゴーなどの詩を耽読して大いに詩に接近した。そのことが、詩の造型へと突入したひとつの要因であったのではないだろうか。

また、昭和14年から19年迄の6年間、1首(?)のみの作歌である。やはり、それも詩の造型に時間を費やしたようだ。
それも、第二次世界大戦のさなか、戦意高揚、戦争賛美の詩作に打ち込んだようである。
おそらくそれは、天皇への信奉や報国の熱意からくるものと思われるが、私はそれ以外にも要因があったのではないかと推測している。
と云うのも、光太郎翁は明治39年2月、23歳の時に渡米している。彫刻の勉強が主な目的だったようだ。当時のアメリカは人種差別も激しく、黒人のみならず黄色人種をも蔑まれていたようだ。
「記録」と云う詩編の前書きに、次のような一文が載っている。
「大正14年1月作。明治39年筆者はアメリカ紐育市(ニューヨーク)に苦学している。日露戦争の後なので数年前の排日運動の烈しい気勢はなかったが、われわれが仲裁して面目を立ててやったのだというような顔には絶えず出会った。紐育市郊外ブロンクス公園が筆者の唯一の慰安所であった。動物は決して「ハロー ジャップ」といわなかった。」と記されている。

昭和20年(1945年)4月、空襲によって東京のアトリエは多くの彫刻とともに全て焼失してしまった。已む無く岩手県花巻町(現在の花巻市)の、宮沢賢治の弟、清六氏を頼って疎開した。
ところが、間もなくして花巻も空襲に合い、宮沢家も被災してしまった。その年の10月、花巻の郊外、稗貫郡太田村の山裾に小さな家を建て、7年の歳月を慎ましやかに独居自炊生活を送った。
最愛の妻、智恵子は7年前の昭和13年に亡くなっており、独り身であった。その時、光太郎翁は既に60(62歳)を超えていた。稗貫の冬は厳しい。厳冬期になると氷点下10度以下はざらにあった筈だ。
しかしながら杣小家の内部と外界とを隔てるものは障子紙一枚のみ。
その厳しさを7年間も耐えたのは、戦意高揚の詩作に打ち込んだことへの罪滅ぼし、自省の念がそうさせたことの他に、糟糠の妻である智恵子への愛惜の念が、そうさせたのではないだろうか。

詩『典型』
 今日も愚直な雪が降り
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にいるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ。
 三代を貫く特殊国の
 特殊の倫理に鍛へられて、
 内に反逆の鷲を抱きながら
 いたましい強引の爪をといで
 みつから風切の自力をへし折り、
 六十年の鉄の網に蓋はれて、
 端坐粛服、
 まことをつくして唯一つの倫理に生きた
 降りやまぬ雪のやうに愚直な生きもの。
 今放たれて翼を伸ばし、
 かなしいおのれの真実を見て、
 三列の羽さへ失ひ、
 眼に暗緑の盲点をちらつかせ、
 四方の壁の崩れた廃城に
 それでも静かに息をして
 ただ前方の広漠に向ふという
 さういふ一つの愚劣の典型。
 典型を容れる山の小屋、
 小屋を埋める愚直な雪、
 雪は降らねばならぬやうに降り
 一切をかぶせて降りに降る。

高村光太郎 短歌33首
明治39年(1906年)
新詩社詠草
 いと安く生い立ち穉兒(ちご)のこころもて今日あり國を出づと言ひける
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉きにかあるべき
 アリゾナの焼原なかに人住みて路見ゆちから世に盡くる無し

明治40年(1907年)
 わが魂と我と好からずわが肉と我と背けりひとり悲しき

明治42年(1909年)
 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 うすぐらき二階にならぶCOGNAC(コニャック)の瓶に火をもすCINEMA(シネマ)の明り
 ああ我はこころ失せなむ木偶(でく)に似て眼のみうごかす女を見つつ

大正10年(1921年)
 白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ      (北原白秋の歌集「雀の卵」)

大正12年(1923年)
 門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言える不可思議を見る    (与謝野寛(与謝野鉄幹)50歳の賀に)
 みちのくの安達が原の二本松の根かたに人立てる見ゆ        (詩「樹下の二人」の前に)

大正13年(1924年)
工房より
 子供らに蟬を分けてもらひたりうれしくてならず夕めしくふにも
 生きの身のきたなきところどこにもなく乾きてかろきこの油蟬
 小刀をみな研ぎをはり夕闇のうごめくかげに蟬彫るわれは       蟬の彫刻(光太郎は手放さなかった)
 ひつそりと翼をさめてゐる蟬のつばさ手ずれてやや光りたり
 三角の木ぎれ手に持ち墨引きていとしきものか蟬の眼をみれば

 ひとむきにむしやぶりつきて爲事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子
 今おもふ人のことこそをかしけれけものとなりて湯にひたる時    (橘曙の影響?)

 山坂の道し遠けど人目なくば抱き來ましを都の智恵子
 日本はまことにまことに狹くるし野にねそべればひろきが如きに
 腹へりぬ米(よね)をくれよと我も言ふ人に向はずそらにむかひて
 腹へるはきよらかにして好ましと我がかたりつつ友の飯くふ

大正15年(昭和元年)1926年
 强きこといくたび言へどいかがせんひもじき時は金欲しとおもふ

昭和2年(1927年)
 やせこけしかの母の手をとりもちてこの世の底は見るべかりけり

昭和8年(1933年)
ありし昔の銀座をしのぶ
 「ライオン」の獅子の吼ゆれば涙もてかのテイブルに書きしわが歌(尾張町角)

昭和9年(1934年)
 ちちのみのちち老いましてよねんなくしごとしたまふ春あさき日を(光雲の書に添えて)

昭和13年(1938年)
「智恵子抄」
 氣ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばんとすなり
 この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾をいねしめず

昭和20年(1945年)
 わが心ゆたかにさめて朝の陽のかがよふ時し牡丹花さく (花巻の佐藤隆房氏邸の牡丹を見て)

昭和21年(1946年)
 みちのくの花巻町に人ありき賢治を生みきわれを招きき
 太田村山口山の山かげに稗をくらひて蟬彫るわれは   (大事にしていた蟬の彫刻はこれかも)
昭和22年(1947年)
 オリオンが八つかの木々にかかるとき雪の原野は遠近を絶つ

光太郎翁詠歌686首のうち、33首を引いてみた。
光太郎は明治38年2月、23歳で渡米したが、それまでは与謝野寛(鉄幹)の下で短歌を学んだ。
渡米以前の短歌は鉄幹による添削が厳しかったらしく、光太郎自身の作品とは云い難いことから、明治38年以降の歌作から33首を私の独断と偏見で選んだものである。


フォト短歌「光太郎」 フォト短歌「旅狂さんへ」

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