エッセイコーナー
679.アンソロジー 短歌『游』18号の刊行  2022年3月26日

東日本大震災の翌年だったか、以前から何度も親戚の伊藤圭一郎(故)さんから誘われていた短歌愛好会「游の会」に、顔を出すことになって10年の歳月が流れた。先輩方に揉まれながらも、上達の見えない拙歌を未だに続けている。
2018年11月20日、無念にも他界された前代表の千葉利英さんの後を次いで約3年、会員らによるアンソロジー『游』の編纂に努めている。
その短歌『游』の18号が完成した。

表紙には千葉利英さんを偲びつつ、奥さんの許可を得て剪画(切り絵)を掲載させていただいた。剪画のタイトルは「光をこぼす」平成27年の日本剪画美術展で日本一の日本剪画大賞に輝いた作品である。
今号は会員10名のうち8名による短歌144首(各18首)とエッセイ8編(各1編)を収めたもの。
ここ2年程、新型コロナウイルスや変異種のオミクロン株の感染拡大により、歌会や吟行会をなかなか開けなかったが、無事に発刊が叶ったことに喜悦を禁じ得ない。
当著は国立国会図書館、日本現代詩歌文学館、岩手県立図書館、一関市立図書館、平泉町立図書館、舞川市民センター等で閲覧できる。

アンソロジー『游17号』刊行  2021年2月23日


短歌『游』18号 游の新聞記事 フォト短歌「黃を深める」
       

追記
私は游の会に入会して10年。代表として3年間務めてきたが、10年ひと昔、3年ひと区切り。「ホップ、ステップ、ジャンプ」次なるステージに一歩足を踏み出そうかと思っている。
そんなことから、『游』18号の中から私のエッセイを紹介し、しがらみをお仕舞いにしたい。


三十一文字の哲学「社会詠と自然詠」                   

生活詠全盛の今日、評価はされにくいが、私は自然詠に心惹かれ、社会詠に生への責任と気概を感じる。
赤紙の表紙手擦れし国禁の書(ふみ)を行李(こうり)の底にさがす日
やとばかり桂首相に手とられし夢みて覚めぬ秋の夜の二時
上の二首は、石川啄木が当時の武断主義に傾注する国政に対して異議を唱え、また国禁の書を読み耽るなどして混迷の社会に対するアンチテーゼとして詠んだものと思われる。
詩歌全般を含む文学、文芸の持つ意義、また社会に対する役割として、その時代じだいの情勢を記録することの他に、画一的で公権的な力に対して、文芸の持つ多角的なアプローチにより、柔軟性や多様性を社会にもたらすことが出来るものと確信している。

また一方で、花鳥風月、雪月花、自然の移ろいに思いを馳せ、耽美をよしとして風流韻事に通じることもまた、生の喜びに繋がるものではないだろうか。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
藤原定家が詠んだ三夕の名歌の一首として知られる歌だが、侘び寂びの世界観に美を見出した秀作である。付け加えるならば視界の大胆な展開により、幻想的な自然の美を遺憾無く発揮した一首であるとも云えるのではないだろうか。
「見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし」
これは松尾芭蕉の「笈の小文」にある名文として知られるが、天地に従って四季の移ろいを友として、自然に咲く花を花そのものとして観賞し、縄文時代からあったとされる日本人の月信仰をもとに、月は月として想念や思いを馳せる。

我々人間も大自然のなかに生まれ、生かされている。大自然のごく一部であり、その一端に過ぎない。
或いはまた、意志を持った塵や芥のようなものなのかもしれない。
大自然に対して心より畏敬や崇高の念を持ち、懐疑や疑念といった狐疑心で接することや理不尽な接し方であっては決してならない。そのように芭蕉が俳諧の誠を務めたように、私も四季の移ろいを友とした歌を詠み、時として社会の矛盾や不合理に異を唱えるなど、文芸の持つ社会的意義を躊躇することなく提示、展開していきたいと思う。
                                              文責 伊藤英伸

≪return    Tweet   
 スポンサード リンク (Sponsored Link)
  注:当サイトは著作権を放棄しておりません。引用する場合はルールをしっかりと守るようご注意願います。