エッセイコーナー
136.安全保障法制の行方  2015年7月14日

集団的自衛権の容認を含んだ安保法制(安全保障法制)が、安保法案の特別委での審議時間が100時間を超え、目安としていた80時間を上回ったとして、明日採決に取り掛かろうとしているとのことだ。
はたして、本当にそれで良いのだろうか?
総理は、「国民の命を守る為に必要だ」と力説している。
はたして、本当にそうなのだろうか?

もし本当にそうだとして、集団的自衛権の行使によって日本は戦争に巻き込まれないのだろうか。
もし万が一、戦争に発展したとして巻き込まれないという保証はあるのだろうか。国防にあたる自衛隊員はもとより、一般市民が巻き込まれない戦争なんてある筈はない。必ずや多かれ少なかれ、今まで平穏に暮らしていたお年寄りや子どもたち、何の罪もない一般市民の女性や我々も必ずや巻き込まれるだろう。一般人の犠牲は過去の戦争や現在の紛争を見ても明らかだ。
賛成派の意見を聞くと、「友人が戦場で困っているのをただ指をくわえて見て見ぬふりはできない」と論ずる。
確かにそれも真理だ。困っている友人を誰だって放っとけないと思うのは当然のこと。自身の命の危険を顧みず敵陣に乗り込まねばならないと思うだろう。但し、それは個人的レベルの話だ。

今問われているのは、個人的レベル云々ではない。
1億数千万人の尊い命がかかっている国家としての大きな問題だ。慎重に慎重に議論を重ねるべきではないだろうか。
例え水掛け論であったとしてもだ。
また、賛成派の識者らの意見では、中国の軍事力増強への懸念を指摘するが、確かに脅威であることには違いない。
しかしながらかと言って、軍事力増強を誇示し、直ぐ様ミサイルを打ち込んでくるのだろうか。
今の軍備は、昔のそれとは遥かに違う。雲泥の差がある。もし万が一、本格的な交戦にでもなろうものなら、お互いの打撃は相当なものになる。犠牲は計り知れないことは十二分に承知の筈だ。それほどバカではあるまい。
危機意識を持つことは大切だが、過剰過ぎるのも考えものだ。

つまりは、軍事力増強の最大の目的は「抑止力」にある。
しかしながらこの抑止力、つまりは軍事力には限りがない。どの国も、軍事力増強を謳い、新兵器の開発に励むことになれば(既になっている)、この綺麗で静かな地球上に住む場所がなくなることにもなりかねない。
はてさて、いったい何処に住んだらいいのか……?

反対派の野党の追求や違憲だとする憲法学者や識者の論調では、違憲の論点にばかり照準を合わせ、重箱の隅をつつきながら追求しているようだが、そればかりでは進展しないのではないだろうか。
何はさておき一番大事なことは、「戦争は絶対にやるべきでない」とする「不戦ありき」を論旨或いは主軸に置き、理路整然と政府や国民のアイデンティティに訴えかける必要があるのではないだろうか。
丁寧に丁寧に、尚且つ早急に呼びかけていく必要があるのではないだろうか。
一番大切なイデオロギー云々を箱の隅っこに追いやり、箱の表の紐や包装紙にばかり照準を合わせているようだが、寧ろ今こそ、不戦の正当性や重要性を、概念論に留めることなく力強く誇示し、主張してもらいたい。
国会を延期するにしても、堂々巡りの水掛け論ばかりでは何の進展もないのではないだろうか。

いずれにしても我々一般庶民の手や足や声の届かないところで、国の方向性はもとより、着々と有事体制が整えられようとしている現実に、ただただ歯がゆさを感ぜずにはいられない。
それにしても自公連立与党内での反対者は一人もいないのだろうか……?
残念でならない。
最後に、7月13日投稿されたハフポストの掲載文を紹介したい。
第二次大戦時、フィリピンのレイテ島で日本兵に戦友(親友)を殺され、自身も怪我を負ったが、「でも日本を愛している」と答える米国退役軍人(80代後半)のジョージ氏がインタビューに答えた一文を紹介する。
「日本人も僕らと同じだってことに気づいたんだ。戦争中は命令されたことをやった。日本兵だって同じさ。ただそれだけのことなんだ......」

 

迷走する国是


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