エッセイコーナー
851.当たり前の輪廻  2023年9月1日

6月には父の葬儀。その翌月には親類の葬儀。昨日は分家さんの葬儀と、3ヶ月連続で身内縁者とのお別れを体験した。
別れは実に切なく淋しいものである。
父は満91歳。翌月に亡くなった親類は父と同い年。そして昨日葬儀を終えた故人は満98歳。皆天寿を全うしたと云っても過言ではあるまい。
特に昨日葬儀を終えた故人はもう少しで三桁に届くところだった。御当人もそのつもりで頑張っていたようだ。
とは云え、天寿全うの大往生である。

私の母と元同僚であり、長らく小学校の教団に立った方である。教え子らが最後の別れを告げに、極暑にも係わらず喪服に身を包みながら訪れていた。
コロナ禍もあるが、和尚さんが云うように、高齢者の葬儀ではあまり弔辞を耳にすることはなくなったが、教え子らの弔辞もあり、教育者としてかなり慕われていたことが窺える。
コロナ以前は、大勢で列を組みながら菩提寺の山門をくぐり、本堂へと石段を登ったものだ。コロナ禍になって暫く、行列を省略する葬儀が殆どだが、故人の希望もあって行列を組むことにした。

コロナ以前は近在に住む親類23世帯の協力もあり、持ち物の役割分担などはスムーズにいったものだが、5類移行になったとは云え、コロナ禍以降「お知らせ」を出す数はかなり減っている。従って役割分担を決めるのも一苦労だ。
結局、喪主の孫らに徴収をかけるなど、何とか行列も様になったようである。
炎天下のもと、不満を口にする御仁もいたが、やって正解であった。
故人も、鳥瞰しながら「暑い中本当にありがとうね」と云っているのではないだろうか。

コロナ禍以降、嘗ては当たり前だったものが、当たり前ではなくなってきている。淋しいが、それもまた致し方なし。
今後はおそらく、色んな意味で、色んなものが省略されていくのだろうなぁ・・・。
やがてまたそれが「当たり前になり」、浸透して、自然に受け入れられていくのだろう。
その繰り返しが「自然の摂理」と云うことではないだろうか。


フォト短歌「鈴虫」  
伊藤チヤ子先生の好きな言葉が「憩」。
墓碑にはその文字がしっかりと刻まれている。
   


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